このテマについては、もうかなりいこと考えていて、いつかちゃんとこれまでに考えたことをまとめておきたいと思っていました。中国でまとめるのは疲れるので、うまくできるかどうかわかりませんが、まず日本でちょっとメモを作ってみようと思います。
以前私の周りでは、「なんでも一人でできること」に高いが置かれていました。洋服も、靴も、音も、旅行も、家事全般も、なんでも「一人で自分のセンスに基づき、自分の任によってする。そして、その果は一人で独占的に享受することができる」というのが、「能力が高い」「かっこいい」人と捉えられていたと思います。
そして、そういうを共有している人のの中にあって、私は、周の人から、「なんでも一人でやれよ」と命令されると同に、「どうせお前なんかばかだから一人でなんか何もできないんだよ」という2のメッセジを受け取っていました。
ひょっとしたら、そういうメッセジを私に向けてしていた人たちは意的に私をつけようとしていたわけではないのかもしれません。ただ、「女はバカな方がかわいいし、自分よりバカであって欲しい」とうことが、人をなうことになるとづかなかった人たちだったのだと思います。
そうやって、身近な人から常にばかにされけていたので、20代から30代初めの私はとにかく相手を返したくて、必死でもがいていました。で、努力の果、一人で外国に行き、勉し、外国を得し、友にもめぐまれ、仕事にもめぐまれるようになると、今度は周から「お前は自分手だ」と非されるようになりました。
でも、いつだって「一人で何でもやれ、金も自分で出せ」って言ってたじゃない。私は不でした。
今振り返ってみると、「オレは『独立自主的女人』が好きだ、だからお前もそういう女性になれ」って言ってた彼らは、ただの面倒くさがりで、に私のことでやお金をわれるのをましく思っていたから、上の言を方便として使っていたのだろうと思います。本人たちは自だったかもしれないけれど、果的にはそういうことなんじゃないかなと思います。今となってみれば、そういう人たちが当に言った言を真に受け、真にんだり、努力したことがあほらしく感じます。もちろん、彼らにする怒りを原力として、留学したり、一生命勉したことすべてがだとは思いません。でも、今では彼らの考え方はっていると思うし、そういう人とはわりあいになりたいとは思いません。
本当に相手のことを好きだったり、尊敬していたら、自分が良いと思うもの、大切なもの、しいを相手と共有したいと思うのではないでしょうか?日本にいたときは分からなかったけど、台湾でさまざまな人と知り合う中でそうく感じるようになりました。そうじゃなかったら、一にいる意味なんてないじゃないと思うのです。
以前の同僚と、日本にるたびに会います。何年か前、私がフェミニズムを学び始めたばかりのとき、息いて男性批判をしたとき、彼女が—彼女は早くにお父さんを亡くされています—一言、「でも、男の人ってもろいよね」と言いました。私はそのとき、その言をうまく受け止められませんでした。でも、最近、少しずつわかるようになってきたと思います。猫や、猫パパと暮らしはじめ、自分も妊になり日々感じるのは、生きているものはみんなもろくて、日々常に他者からの遣いやケアを必要としているということです。それは、一どんなに「独立自主」を成しているようにえる人でも一です。
それに、家族や恋人から「独立」しているようにみえる人でも、ひょっとしたら、メディアの情や企のコマシャルに深く依存していて、「自分で」しているようにえても、局はメディアや企の情操作にその生活スタイルを制されているかもしれません。だとしたら、「何でも自分でめて、自分のお金で入している人」イコル「独立自主の人」とは言い切れないと思います。こういう点からたら、むしろ常に家族や友人と限られたりソスを分かち合って暮らしている人の方が、メディアや企の情操作から自由でいられるかもしれないのです。だから、どっちがより自主的な生活をしているか、一概には言えないということです。
世の中の主流のでは、少しでも自分のを高めること、今よりもくなること、今よりも一人で何でもできること、今よりももっとお金持ちになることが私たち一人一人に求められています。でも、それって生き物の特性に反していると思うし(人は赤ちゃんのときは的な弱者だし、年をとればまた弱者になります)、そういうを信じて努力しても、に本家や力者に奉仕するだけなんじゃないの、と思います。それよりも、人(他の生き物も)はでも弱い部分や欠点を持っていて、常に切なケアを必要としている存在だということ、いま、ここでは一他者の援助を必要としていないようにえる人でも、去·未来にはかならずケアの必要な存在にんるということをしっかり据えて、身の回りの人のケアにより多くのをかけるようにしたほうが良いんじゃないかなと思います。日本では、遣いやケアは女性ので、台湾では、外国人低金者の仕事になっています。でも、本当はそういうふうに、ケアされる人とケアする人をはっきり分けてしまうのは、お互いにとってとても不幸なことだと思います。一人一人が、本主にしているモデルを反省し、感を取りし、お金けとはのないところで、ケアや遣いができるようになったら良いのにな、と思っています。
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