台北支局 源一秀
まで50年にわたり日本が治した台湾。赴任から2年、各地に残され古い建造物、碑などに日本の面影をてきた。しかし、幼少より勤力行の象として敬ってきたあの方の像が、日本の精神をいまも台湾各地でえけているとは。
しゅうせん 治 とうち 赴任 ふにん
残される のこされる 面影 おもかげ 幼少 ようしょう
勤力行 きんけんりっこう 象 しょうちょう 敬う うやまう
初めてお目にかかったのは、1年前だった。石像があるとのうわさの真をかめるべく足をんだ台北近郊の光地、金瓜石の道教「堂」の敷地内。1メトルの像は目にても明らかだった。をしながらまきを背ってく少年像。そう、一昔前なら小中学校の校庭の景の一部だった二金次郎像だ。
石像 せきぞう 真 しんぎ かめる たしかめる
敷地内 しきちない 目 とおめ どくしょ 背う せおう
一昔 ひとむかし 校庭 こうてい 景 ふうけい
二は江代後期に生まれ、民から幕臣にまで格した立志中の人物。、勤の生涯をき、600余りの困村を救った。内村三の表を借りれば「代表的日本人」の一人だ。
民 のうみん 幕臣 ばくしん 格 しょうかく 立志中 りっしでんちゅう
ほうとく 勤 きんろう く つらぬく 困村 ひんこんむら
救う すくう
かしさにけ寄るや、思わず吹き出してしまった。なぜって、しいはずの二少年が余りにもふっくらで、おまけに福耳ときていたから。地の日本世代のお年寄りに由来をたずねた。像は1936年、の工事をした、大から招いた石工に、台湾人父母らが「近所の(日台の)子どもたちの教育のために」と作ってもらったものだという。
かしい なつかしい け寄る かけよる 吹き出す ふきだす
しい まずしい 余り あまり 福耳 ふくみみ 招く まねく
日本のイメジとなるのは、吉祥を像にめる中的造力のたまものだろう。当の父母の思いにも感じ入り、自身の不慎をじることになった。ただ、これがきっかけで、台湾全土に散らばる二像をたずねくことになった。
なる ことなる 吉祥 きっしょう 造力 そうぞうりょく
不慎 ふきんしん じる はじる 散らばる ちらばる
最も巨大だったのは、屏治の小学校にある。同小OBらが2005年、50万台湾ドル(140万)を出して、骨董商から入、寄した高さ150センチの像だ。日本治代から残る型で作られたものという。
巨大 きょだい 入 こうにゅう 寄 きそう 像 どうぞう
当、ったにこれが二だと知る人はいなかったという。同小には中国大の中原を起源とする客家の子弟が多く通う。「客家の美である素、勤、勤勉を事に体した像。なのかなんてはなかった」。ただ、この像も事な福耳で、形はまげではなく像を思わせる。
起源 きげん 通う かよう 事 みごと 体 たいげん
像 ぶつぞう
小型のものでは、桃の平小学校の校室の棚に、前のものとられる40センチの像がある。これは日本だ。二のを知る元校が骨董屋でたまたまつけて入、寄付したもの。しい先住民子弟が多く通うため、「しくても二さんのように努力を重ねればわれる」ことを生徒に教える教材となっている。
小型 こがた 棚 しょだな いぎょう 寄付 きふ 努力 どりょく
重ねる かさねる いる むくいる
一体どれだけの新旧二像が台湾にあるのか、定かではない。中、台湾各地にあった像は供出で撤去され、残った石像のほとんどは、後、大から渡った国民党政に破され、孔子像や蒋介石像にえられている。前からのものは、特に希少であることはかだ。
希少 きしょう 撤去 てっきょ
それだけに、出会えた喜びは格だ。台湾で地方へ出かけるたび、地元民に心当たりはないかをたずねるのがとなった。日本二像もいいが、ユモラスな中二像の魅力もたまらない。日本のモノだというのに、日本では味わえないしみだろう。
出会える であえる 格 かくべつ 心当たり こころあたり
魅力 みりょく 味わえる あじわえる
2011年1月28日 新により
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